『悪循環の現象学』を紹介してくれた知人が、他の依存症関連などでおすすめの本として紹介してくれたので、次の一冊はこれを紹介したいと思う。
『親密性の変容』である。
著者はケンブリッジ大学教授で、社会学を主導している世界的に著名な研究者。1995年が初版で少々古くなっているかもしれないが、とりあえず読んでみることにした。
本書の構成
本書は主に3つの構成からなっている。
前半は、異性愛・同性愛、恋愛・婚姻などに関わるセックスについて。中盤は、アルコールやセックスの依存症について。後半は、男性性や女性性について現代思想を交えて論じられている。
流石に私は素人なので、現代思想に関連する場所も含めて30%ぐらい理解し切れない感じがした。
それでも前半から中盤にかけては、周りの人間やネット社会に浸っている世代として興味深い面もあった。いくつか気になった箇所を自分なりに取り上げたいと思う。
セクシュアリティについて
本書では、性の解放の条件として「近代的避妊法が導入された」ことと「生殖技術のより一層の精緻化」が挙げられている。
確かに、避妊の心配が無く、また人工授精が可能になったことで「性の自由」「性革命」が起きたと言えるだろう。
「生殖はかつては自然現象のひとつであり、したがって、異性愛活動は、必然的に生殖の中心的行為であった。しかし、すでに論じたような変化の結果、セクシュアリティが社会関係の『不可欠な』構成要素となった」
「異性愛がさまざまな嗜好形態のひとつにすぎないと受け止める段階にはまだ来ていないが、生殖の社会化は、そのような意味合いを暗に含んでいるのである」
つまり、現代において婚姻前のセックスは当然として、いずれは異性愛ですら嗜好形態の一つであり、同性愛と何ら変わらないものになるのではないかという見解を述べている。
本書は海外の著作のため、特にキリスト教文化が下敷きになっている。
ところが、日本は戦前において妾も公然とされており、江戸時代以前は同性愛・男色にも比較的寛容であった文化がある。
そうなると日本の場合、セクシュアリティの価値観は、わずか2〜3世代で大きく揺さぶられていることになるのだ。このような観点から、日本のLGBT活動を考えてみる書籍あるならば読んでみたいと思う。
嗜癖・依存症について
さて、これを踏まえた上で本書は嗜癖・依存症について展開していく。
嗜癖とは、衝動強迫で「その人が意志の力だけで止めるのが非常に難しかったり、不可能なことがわかる行動形態で、また、その行動を実際にとることは、精神的緊張の解放をもたらしていく」とされている。
しかし、嗜癖は、防衛本能の一種であり、一概に悪いものとも言えないところもある。例えば、仕事中毒のように、社会的に容認できるかたちで生ずるものもある。
その他、嗜癖・依存症の中には、アルコールや摂食障害も含まれる。
さて、それではセックス嗜癖というものもあるのだろうか。
その答えが、前章からも導かれている。
「衝動強迫的セクシュアリティは、自由に性体験をもつことがかつてなく可能になり、くわえて性的アイデンティティが自己の叙述の中核をなしているという状況を背景に理解していく必要がある」
つまり、セックス依存症には「性革命」が大きな影響を及ぼしているのだ。
これは現代社会において、セックス依存症は避けられない問題とも言える。
私としては、セクシュアリティに関連する問題は、承認欲求というものキーとなっていると思っている。
「セックスが嗜癖化している女性は、性的口説き落しが活力の主たる源泉になるという循環に取り付かれ、やさしさや触れ合いにたいする欲求を性的行為を通じて充足している。ほとんどの女性のセックス嗜癖的行動の背景には、関係性を進展さえたいという願望が働いているのである」
また、「嗜癖と、親密な関係性の問題点」という章では、「共依存症の人間は、他の人びとの行動や欲求をとおして自分のアイデンティティを見いだすことが習慣化している。(中略)嗜癖は、生きる上での安心感の最も重要な源泉となっているからである」と書かれている。
セックスにより相手を引き止めたい、進展させたい願望からより行為に走り、さらに言えば、それが自分のアイデンティティとなり、安心感(精神的緊張の解放)をもたらすためやめられなくなる。
このようなループがセックス依存症になっていく要因の一つのではないだろうか。
特にネットの裏垢や精神的に不安定な女性に多くみられる気がする。
まとめ
本書のタイトル「親密性の変容」についても少し述べておこう。
依存症になる関係性を「嗜癖的関係性」、自立した関係性を「親密な関係性」と定義している。この関係性は、性やジェンダーだけでなく、家族関係にも適用される。
人と人との関係性やセクシュアリティに悩みは、現代において恐らく多くの人が抱えており、尽きることはない。
そもそも自由とは、不安定なものである。
ステレオタイプの世の中が良いといえばそういう訳ではないが、一定の暮らしやすさもそこにはあると思う。
だからと言って、偏見が蔓延る状態も良くはない。
お互いが認め合い、緩やかに棲み分けをし、最終的には個人個人で折り合いを付けやすい社会になることを願うしかないのだ。