村上春樹5作目。村上春樹研究をしているわけではないのですが、気になる作家を読んでいこうという趣旨で大量購入してしまい、それを読み切るのに一苦労している状態です。
とはいえ、話題作からは何かしら得るものがあるべきとして、今後もマイペースですが読書記録を付けてきたいと思います。
「1Q84」ってこんな小説
あらすじ
予備校の講師を続けながら小説家を目指す天吾、スポーツインストラクターをしながら女性をDVで苦しめた男性を暗殺する青豆、この2人が主人公で話は進む。
ある時、2人は別々のタイミングで1984年から「1Q84」と呼ばれる新しい世界に引き込まれる。その世界は今までとほとんど同じながら何かがおかしい。
10歳の頃、誰もいない放課後の小学校の教室で黙って手を握り見つめ合った2人は、「1Q84」の世界で小説「空気さなぎ」をカギにして20年ぶりに再び近付いていく。
自分自身を見つめ、様々な難関を乗り越えて2人は再会を果たし「1Q84」の世界を脱出して幕は閉じる。
「1Q84」の世界は何なのか、宗教団体「さきがけ」、「リトルピープル」など様々な謎が絡み合った全1,657ページにわたる長編小説。
表面的な解釈
まず、この小説の大きな特徴は実在の団体を連想させる舞台設定にあります。
宗教団体「さきがけ」は「オウム真理教」、証人会は「エホバの証人」その他にもWikipediaを見るといくつか実在の団体がモデルと思われるようなものがあるようです。
そうすると、これは時事問題を提起している小説なのかな?と思いますが、読み進めていくとそういう雰囲気でもありません。
天吾は、編集者の小松から持ち掛けられた新人賞応募作品「空気さなぎ」をリライトすることにより問題に巻き込まれていきます。
一方、青豆はインストラクターの顧客である老婦人の手助けとしてDVに悩む女性を救済するために宗教法人「さきがけ」のリーダー暗殺計画に加担します。
両者を結びつけるのが、「空気さなぎ」の作者ふかえりであり、父親である宗教法人のリーダーです。
青豆はリーダーを暗殺しますが、物語としてはその宗教法人との闘いがメインではありません。
むしろ、「1Q84」の世界に迷い込み「さきがけ」に追われる困難を乗り越えて、20年ぶりに再会しハッピーエンドを迎える恋愛小説といったストーリーとも取れます。
しかし、多くの謎や実在の団体を連想させる設定、そして深い背景を持った登場人物、これらを使って単なる恋愛小説ではないよねって事で、多少なりとも疑問を考察していきたいと思います。
ちなみに、村上春樹自身はこんな事も言ってるので、恋愛小説な第一印象もあながち間違えでもなかったり。
『ニューヨーク・タイムズ』2011年10月23日号が行ったインタビューに対し、著者は、本書は短編小説「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(1981年)から派生した作品であると答えている。「基本的には同じ物語です。少年と少女が出会い、離ればなれになる。そしてお互いを探し始める。単純な物語です。その短編をただ長くしただけです」
「1Q84」に散りばめられた疑問
ここからは「1Q84」内に散りばめられた疑問や設定を考察して、少しだけでもテーマを読み解いていこうと思います。
リトルピープルとは
本人のインタビューによると、以下のように述べています。
「神話的なアイコン(象徴)として昔からあるけれど、言語化できない。非リアルな存在として捉えることも可能かもしれない。神話というのは歴史、あるいは人々の集合的な記憶に組み込まれていて、ある状況で突然、力を発揮し始める。例えば鳥インフルエンザのような、特殊な状況下で起動する、目に見えないファクターでもある。あるいはそれは単純に我々自身の中の何かかもしれない」
また、本作の動機とされている地下鉄サリン事件もヒントでしょう。
「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた——そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖」の意味を自分のことのように想像しながら何年も考え続けたことが出発点となった。そして「原理主義やある種の神話性に対抗する物語」を立ち上げていくことが作家の役割
「いろんな流れのまま」とあるように、リトルピープルは人々の潜在的な意識や特殊な状況下(閉鎖的な社会)などで発生する集合的無意識を指しているといってよいでしょう。
現代だとSNSも自分の都合の良い情報しか見なくなり、一方的な方向に気が付かないうちに流されてしまうところにリトルピープルが潜んでいると言えます。
また、本作の流れとしてはリーダーが死を願う代わりにリトルピープルは代理人を求めます。つまり、頭が無くとも動きは止まらない状態がリトルピープルの力なのです。
マザとドウタの意味
「マザ」と「ドウタ」は、その名の通り「mother」と「daughter」であり「ドウタ」は分身です。
「ドウタ」はパシヴァ(知覚するもの)の役目をし、知覚したことをレシヴァ(受け入れるもの)に伝えると述べられています。また、ふかえりは天吾に「『わたしがパシヴァであなたがレシヴァ』」と言っています。
上記から、ふかえり=ドウタは成り立ちます。
ただし、そこから天吾を通じて青豆が妊娠するのは仕組みがよくわかりません。
ドウタたちは巫女として「『後継者をみごもるように務めることが』」「『役割として決められて』」いることから、ドウタの役割はドウタを通じて誰かが後継者を身籠ることなのでしょう。
それが1Q84の世界に迷い込んだ「天吾」と「青豆」なのですね。
しっくりこないけど、何となくしっくりきます。
村上作品は深読みすればいくらでも深読みできますが、ここでは一つの装置として捉えた方がすっきりする気がします。
時事問題を扱った小説なのか
リトルピープルのところで述べたように時事問題が背景となっているのは事実でしょう。
以下は、Wikipediaからの抜粋ですが、このようになっています。
「執筆の背景はカオスのように混沌とした冷戦後の世界で起きた1995年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件、2001年の9.11事件に言及した上で、村上は語っている。」
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」
「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」
— (毎日新聞インタビュー、2008年5月12日より)
「精神的な囲い込み」という状況がリトルピープルを生み出すのでしょう。
「良い物語は人の心を深く広くする」というのは、物語を読むことで希望を持ったり視野が広くなったりするキッカケになるからだと思います。
そんなわけで、個人的には村上春樹研究に没頭すると逆に狭いところに入ってしまうので「表面的な解釈プラスアルファ」ぐらいが丁度良いのではないかと思っています。
物語としても面白く、考察の余地も多分にある「1Q84」は、もう一度じっくり読みなおしたい小説です。